知の望遠鏡

文系教師と理系研究員の本の紹介を中心としたブログです。

脳が創る感覚、そこに実体は在るか?ー『触れることの科学 なぜ感じるのか どう感じるのか』ー

触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか

 

 

茸氏、このところ小説書評が続いておりましたので、今回は理系本です。

 

 

感覚というものは人それぞれに異なるもの。

 

「私の視ている赤とんぼとあなたが視ている赤とんぼは、果たして同じ『赤とんぼ』なのか?」

 

否。

 

私が視ている「赤」を他人は「橙」と視るかもしれないし、逆もまた然りです。

 

これは視覚についての例ですが、嗅覚、味覚、聴覚、触覚についても同じです。

 

人によって感じ方(反応域)と感度が異なります。

 

このような知覚や認識というのは主観的な概念感覚でありますので、他人が客観的に評価することは非常に困難を極めます。

 

視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚。

 

今回はこの五感の中でもとりわけややこしい「触覚」についての内容になります。

 

触覚:熱い、冷たい、圧力、痛み、快感、痒みなど

 

各感覚についてはそれぞれの専用神経が用意されておりまして、種類は違っていても、やっていることは同じです。

 

各神経が受容した様々な外界情報を、脳の共通情報処理言語すなわち電気信号(活動電位)に変換し、脳へと送ります。

 

ただし、各受容器から情報が送られてくるだけでは、外界は知覚されず、受容器から送られてくる情報を脳が複合的かつ高次的な処理を施してはじめて感覚という認識が生まれるのです。

 

 

外界がどんな状態なのか?つまりは、環境情報を感知するのが、視覚、聴覚、嗅覚、味覚であるとするなら、自分がどのような状態にあるのか?を感知するのが触覚です。

 

一般的に、触覚というとまず思いつくのは、痛み、熱、圧力、痒み、質感などといった日常的に感じる感覚だと思います。

 

痛み、熱、圧力、質感、快感の受容に関してはそれぞれに対応した専用の神経細胞が割りてられ、皮膚の下に埋め込まれておりして、人によってこれらの神経終末(感覚センサー部分)の密度や発火頻度(感覚のボリューム)が違うため、感じ方が異なってきます。

 

面白いことに、触覚について痛み・圧力・温度・快感の感覚にはそれぞれ対応する専用のセンサーと神経繊維が配備されいることが判っているのですが、どうも痒みの感覚だけはよく判っていないようです。

 

「痒み神経からの入力で痒みを感じる」みたいな単純経路ではなさそうなのです。

 

どうも痒み受容体(センサー)も1つではなく、複数種類あるようで、おまけに痒み情報を処理する脳内ネットワークも複雑だと見られています。

 

この煩わしい感覚の究明は「痒いところには手が届かない」状態であるようですが、早く究明してほしいものです。

 

そして、脳に送られた触覚情報はまず視床でざっくり下処理された後、大脳皮質の情報元に対応する部分(感覚野)に送られて処理されて触覚として知覚されます。

rehatora.net

 

筆者はとりわけ快感、愛撫感覚やオーガズムに関して多くのページを割いて科学的に解説しておりまして、まぁ、あまり生物学の教科書には載らない内容でしたのでなかなかに興味深いものでした。

 

 

この他にも、無意識下の触覚があり、実はこの無意識下の感覚が自己の確立に重要な働きをしております。

 

極端なことを申しますと、脳の仕事というのは、意識を作り出すことではありません。

 

感覚神経から入力される様々な外界情報を迅速かつ適正に処理し、筋肉(運動器官)に指令を出力し、反応行動を起こすことです。

 

神経系のメイン機能はこれでありまして、進化に伴う脳の複雑化と巨大化の結果、意識という複雑な情報処理の産物が生まれたのでしょう、オマケみたいなものです。

 

膨大な数の神経細胞が繋がった巨大な神経ネットワークの活動そのものが意識を生み出すのなら、現代のインターネット上にも意識のようなものが生じても可笑しくはないのかもしれませんね。

 

そういえば、『攻殻機動隊』にそんな感じの話があったと思います。

 

 

すみません、少々脱線しました。

 

無意識下の感覚が何故重要かと言いますと、末端からのフィードバックがなければ脳は「自分のカラダ」を認識できないからです。

 

脳が運動器官に指令を出力した後、筋肉が緊張しているのかor弛緩しているのか?皮膚は引き延ばされたりor圧力がかかったりしているのか?などの運動器官や体表感覚のフィードバックがないと、出力した指令が適切であったのかがわかりません。

 

常に身体位置のフィードバックがあるため、私たちは歩いたり、コップを持ったり思うままにカラダを動かすことができます。

 

結局は、脳が「触覚」として認知しない限り「触覚」という感覚は無いのも同じということです。

 

脳で感覚が生ずるということは、実際に感覚神経からの入力が無くても、脳が勝手に「感覚がある」と認識すれば当人にとってはそれが現実となります。

 

幻視、幻聴、幻肢痛などは脳のそうした勘違いが原因と言われています。

 

視・聴・味・嗅覚によって脳内に再構築された世界(外界)と、その中に触覚(身体位置)により輪郭のはっきりした個体を認識する神経ネットワークが自意識なのではないだろうか?

 

本書を読みながら私はそんなことを考えておりました。

 

自らを改変する道具を手にいれたヒト。ー『ゲノム編集とは何か DNAのメス クリスパーの衝撃』ー

ゲノム編集とは何か 「DNAのメス」クリスパーの衝撃 (講談社現代新書)

ゲノム編集技術「CRISPER/cas9」をヒトは使いこなせるか?
 
 遺伝子組み換え技術によって我々人間の文明が成り立っていると言っても過言ではない。毎日食べる食物は天然物以外全て(広義の意味で)遺伝子組換え食品である。
 なぜなら我々の先祖が長い年月をかけて、作物や家畜を品種改良したものを食べているに過ぎないからだ。つまり、農業・畜産の歴史は人間が膨大な時間をかけて行ってきた遺伝子組換えの大実験の歴史でもあるのだ。人類が農耕を始めてから数千年という時間をかけて動植物の遺伝子組み換えをひたすらやり続けた。
 
 だが、自然任せによる品種改良は如何せん効率が悪い。
バイオテクノロジーによる従来の遺伝子組み換え技術は品種改良の効率を上げることになったが、かなり大雑把なものであった。ある程度は人為的に狙った遺伝子の改変を行うことを可能としたが、成功率は数%にも満たないのが現実であった。
 
 近年、ノーベル賞候補として注目を集めているゲノム編集技術「CRISPER/cas9」がある。この技術は従来の遺伝子組改変技術をはるかに凌ぐものであり、遺伝子の本体であるDNAを効率よく正確に編集することを可能とした革新的技術である。
 
 ゲノム編集技術「CRISPER/cas9」の特徴は以下の通り。
詳細なゲノム編集のカラクリについては本書で確認を。
 
・遺伝子の狙った部分(塩基)を正確に編集できる
→編集法:遺伝情報の削除、修正、挿入など。
・高い遺伝子編集効率~数10%(従来法比~数%)。
・技術習得が簡単。高校生でも2週間程度で習得可能。
 
この革新的技術は食品、農業、医療の分野で存分に力を発揮し、難病を治療し、より良い作物を生み出せる一方で、我々に新たな問題を突きつけるのだ。
 
そう、『デザイナーベビー』の問題である。
 
神の領域へ:デザイナーベビー 強化人間
 
 原理上、自分たちの都合の良いようにゲノムを書き換えることのできる「CRISPER/cas9」は致死性遺伝病や難病治療の枠を逸脱し、親の思い通りの外見、運動能力や知性を備えた子供(デザイナーベビー)を人間の手で作り出せてしまう技術でもある。
 知能、身体能力を強化した人間、つまりは、SFの中に出てくるニュータイプなどといった強化人間が現実のものとなってしまう未来もそう遠くはないのである。
 
 現在、臨床面でのヒト胚へのゲノム編集は国際的に禁止されている(研究面ではやっても良い)が、非常にアンバランスな状況であり、専門家ですらこの技術をどう扱って良いのか持て余している。革新的すぎるこの技術に対し、我々の倫理観や規制が追いついていない問題がある。
 
 リスクのない絶対安全な技術なんてものはない。ゲノム編集技術「CRISPER/cas9」は社会に大きな恩恵をもたらす一方、遺伝子改変による予期せぬ副作用が引き起こされるリスクがつきまとう。リスクがあることを承知し、そのリスクを最小限に抑え制御しながら技術を使いこなすことが重要だ。
 
 人間にとって非常に便利な技術であるが、自然の摂理に反しているのも事実である。そもそも「CRISPER/cas9」のシステムはバクテリアの免疫システム(感染したウイルスゲノムの削除)の応用であり、バクテリアとしても遺伝子改変に転用されるとは思っても見ないことだろう。果たしてヒトにゲノム編集技術のリスクコントロールができるのか否か?十分に吟味し、議論していく必要があると思う。
 
 本書はゲノム編集技術に関する解説書であり、この新技術に関するルール作りや議論をしていく上での十分な知識と情報を提示してくれる良書である。

 

ヒトという超共生体~10%HUMAN-How Your Body’s Microbes Hold the Key to Health and Happiness.~『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れ始めた』

あなたの体は9割が細菌: 微生物の生態系が崩れはじめた

あけましておめでとうございます。

正月休みは実家で寝正月してました。友人との飲み、普段よりガッツリ食べて、酒飲んでコタツでそのまま寝落ち。そして、然程運動もせずダラダラと過ごした数日間。その結果、カラダに便秘気味、肌荒れなど不調をきたした。人間の健康状態(腸内環境)なんて数日間普段と違う食生活を送るだけでこうもあっさり崩れるものです。

 つい先日、NHKの番組で「サピエンス全史」という書籍がベストセラーということで特集が組まれていた。チラッと見ただけだが、このような内容が書かれているという。人類が小麦などの農作物をコントロールしているようでいて、実際には

「人類が小麦に家畜化されている」

というトンデモ説を展開します。

「小麦から見れば、人間を働かせて小麦(という種)を増やさせ、生育範囲を世界中に広げることに成功した」 

ん?似たような話をどっかで聞いたことがあるな・・・あ!!

キルラキル」だ!!人類が生命繊維に支配され餌にされるってやつと同じだ!!

 物語中でも一度は人類を餌にしようとサルをヒトに進化させた生命繊維だが、最後は反抗されて返り討ちに合いました。そ、生態系での一方的支配は長くは続かない、持ちつ持たれつのバランスが大事。食物連鎖の頂にいる捕食者も死んだらバクテリアなどの餌となり土へと還理、次の命を繋ぐ糧となる。これが食物連鎖で、生態系というシステム。 

 かくいう我々ヒトも複雑な生態系を宿した存在(マイクロバイオーム:microbiome)なのだ。すっかり前置きが長くなってしまったが、ここからが本題。

要は、我々が健康でいるためには己に棲まう微生物たちと上手に協力しないとならないということ。本書を読む上で私が面白いと思ったポイントを抜粋して見たので、興味が湧いたら読んで見てほしい。

*ヒトも微生物と共生する細胞集団(超共生体)

 ヒト(宿主)に棲まう(寄生or共生する)微生物たちの総称をマイクロバイオータという。ヒトの持つ遺伝子はたった2万ちょいであるのに対し、マイクロバイオータの持つ遺伝子は40万を超える。

*めんどくさい仕事(代謝)はアウトソーシング

 ヒトの持つたった2万ちょいの遺伝子だけではヒトの生命活動を支えるだけの代謝をカバーしきれない。そこで、マイクロバイオータに住みかを提供する代わりに、特定の代謝を外注するよう進化してきた。そうすることで、宿主自体が持つ遺伝子は少なくて済む。ヒトで言えば、腸内細菌による摂取した食物からのビタミン類の合成など。宿主にとって利益となる働きをしてくれる微生物が所謂、有用微生物であり、特定の種に固定される訳ではなく、宿主の望む働きさえすれば良い。ということは、利害の一致する有用細菌群を保持した個体は生存に有利であり、そのような有用細菌群を子孫に継承する戦略をとる種が優位となり、実際、それらは遺伝する。

*大量殺戮兵器 抗生物質の光と陰

 感染症の特効薬、まさに命を救う薬の抗生物質。その性質上、標的病原菌以外の似たような有用細菌まで殺戮する一面もある。使い方を誤ると、有用細菌が死滅した空白地帯に別の有害細菌が定着すると、重篤な消化器疾患などを発症することがある。

*21世紀病の出現と対応

 先進諸国で急増している、肥満、Ⅰ型糖尿病、自己免疫疾患、アレルギーといった免疫系疾患、過敏性腸症候群自閉症うつ病などの疾患とマイクロバイオータの組成変化に関係があることが近年の研究で明らかになりつつある。

*マイクロバイオータの母性遺伝

 人間の場合。子宮の中にいる胎児は無菌状態。羊膜を破り産道を通り生まれてくる時に、母親から有用細菌の移植がなされる。有用細菌の新生児への入植というべきか、母親によって選ばれたエリート細菌が新生児の腸や表皮へ入植する。母親と良い関係を構築している細菌は、ゲノムがほとんど同じ我が子とっても有用であり、病原性細菌の定着を防ぐことでもある。しかも、母乳には新生児の栄養分の他に、そうした細菌や彼らの餌となる成分まで入っており、新生児の腸内に確実に有用細菌を定着させようとしているのだから驚きだ。母はやっぱり偉大だ。ミトコンドリア母性遺伝と同じだ。

 

 ミトコンドリア葉緑体の内部共生によって真核生物に進化した。その内部共生体を有する多細胞生物は、その個体を維持存続、繁栄するためにそこらの細菌と手を組むことで、より複雑な生物種へと進化した。このマイクロバイオータとの関係は“細胞外共生=細胞間共進化”といっても良いと思う。

文理対談「近親婚について」ークローズドコロニー、多様性、グローバリゼーションー

f:id:sukekinoko:20161218214005p:plain  介氏(文系)ー以下、介

f:id:sukekinoko:20161225180734j:plain   茸氏(理系)ー以下、茸

介 こんばんわ。

 さて、初回テーマだけども。

 近親婚の問題について取り上げてみましょう。

 承知。では、介氏の見解からどうぞ。

 近親婚というのは、ほとんど民族や文化でタブーとされていますね。宗教上の禁 忌とされる場合が多く、推奨されるものではありません。しかしながら、古今東西、王族いわゆる高貴な人々の間で、近親婚が繰り返されたのもまた歴史的事実であります。しかし、近親婚が繰り返されてきた結果、様々な問題が起きました。たとえば、ヨーロッパのハプスブルク家に代表されるような、遺伝病が誘発され、障害児や奇形児の生まれるリスクが高まったのです。(ここらへんは茸氏の領分でありましょうが)。実際、古今東西、様々な王朝である代に突然、キ◯ガイのような暴君が現れるのは、この近親婚が繰り返しが引き起こした精神病の一種なのではないかとも考えられるわけです。つまり、近親婚の引き起こす様々な遺伝的なリスクを人類は経験したために、そのリスクを回避するために、近親婚をタブーとしたのではないかと考えられるわけです。実際、多くの国の神話や伝承の中には、近親婚を行った結果、不幸に見舞われるというようなタイプの話が多く見られれます。(ギリシャ神話におけるのオイディプス王 の話などが典型的ですね。)神話というものがある種の教訓を伝えるために生まれたものと考えるのではあれば、人類はこのような神話を用いて、近親婚への戒めをしていたのではないでしょうか。

 近親婚を繰り返すと、当たり前ですが血が濃くなり、遺伝子の多様性が収束していく方向に傾く。ヒトの遺伝的多様性は非常に高いため、ある遺伝的多型が濃くなると重度の疾患または死を招いてしまう。実験動物だと、この近親交配を繰り返し遺伝子組成を均質化した近交系(クローズドコロニー)を作るんですけどね

 なるほど。…ただ興味深いのは、このようなタブーがあるにも関わらず、どの時代でも近親婚が行われる例は多いということです。近親婚を行うのは、身分の高い家同士で行われることが多く、しかし、最終的にそれは崩壊へ向かうのです。

 日本神話でイザナミの第1子は人の形を為していないヒルコであったという逸話についても、イザナキとイザナミが血縁者同士の近親婚による奇形児出産だったって可能性が考えられませんかね?

ヒルコ - Wikipedia

 つまりですよ、身分が高い人々が近親婚によって最終的に破滅するという、この歴史的な法則が、ある意味、人類の身分の固定化というものを防いでいるのではないかとも考えられると思うのです。

 つまりは、自然選択により近親婚を繰り返す集団は排除されていく可能性があると?高貴な身分といいう実態はなく、そこに収まる氏族集団が入れ替わり立ち替わり流転すると?

 そういうことです。そうすることで、身分の循環がなされ、身分の低き者が身分が高き者になるチャンスが巡ってくるのです。いわば人類史において「下克上」とは、近親婚というもの通じてシステム化されているのではないかと思うのです。

茸 なるほど、実に興味深いですね。では、ぼちぼち私の開陳を始めますか

 どうぞ。

 そもそも近親交配を繰り返すという行為自体が進化の流れに反している。なぜか?

 さっきもあったように、最終的に破滅に向かうからでしょう。

 生物は自分とは違った遺伝子組成を持った子孫をたくさん作ることで、環境変化により適応した個体を残せる確率を上げる。その効率を最大化できるのが、有性生殖における遺伝子ミックス&組換えによる変異型(バリエーション)の創出なんですよ。つまり、有性生殖により両親の遺伝子をミックスし、親とは少し違った遺伝子変異を持つ子が生まれる。そうやって、様々な遺伝子変異パターンを持った子孫のうち環境に見事適応できた個体の遺伝子セットだけが残る。この小さな遺伝子変異の蓄積が繰り返されてくことで、祖先とは全く違う遺伝子組成を持つ子孫が生まれる。これが進化の原動力

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 自然淘汰、適者生存ってやつですね。

 そう、自然淘汰を生き残るには、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる作戦を取らざるを得ない。子孫が置かれる環境がどのような状況になるかは予測不能であるからね。なので、自分と同じ遺伝情報を持つ子孫を残し、それが、環境に適応できない場合は一気に根絶やしにされておしまい。

 昔の人は、子沢山ですからね。一夫多妻制も理にかなっている部分もありますね。

 有性生殖の変異創出効率を最大化するには、自分と遠い血統の者と交配することなんです。

 身分が高い人達が遺伝的ににていると考えるのであれば、身分の低い人の血を迎えることにあたりますね。神話にも、全く別世界の人間と契を結ぶことによって、子孫が繁栄するというような話もありますね。さらに神話には犬や虎など動物と人間が契を結ぶことで、力を得るという話もあります。また、先日の私の記事「中国人」とは一体何なのか『紫禁城の栄光』 はてなブックマーク - 「中国人」とは一体何なのか『紫禁城の栄光』の中でも述べたように、定期的に血統をないまぜにすることで、中国という国に強さが発揮されてるとも考えられますよ。

獣祖神話と北アジア 古沢襄 | 杜父魚ブログ

 これまでの話をまとめると、生物は「純化」を嫌い、「雑多な多様性」を好む。ヒトの文化、文明はなぜかこれに逆行しているように見えるんですよ・・・

 昨今のグローバリズムは、「雑多な多様性」を否定し、純化に向かう過程であるとも捉えられますね。まあ、その純化というのは、いわゆるアメリカ化(マクドナル化)にあたるわけですが・・・。

 「純化=均質化」というのは長期的スパンで見るとリスクしかない。ちょこっとでも環境変化があろうものなら純化した集団は一発でお陀仏になってしまいますんで。しかし、そこに多様性があれば、どれか1つでも生き残れば絶滅は回避できますしね

 しかし、アメリカにおけるトランプ現象や欧州における民族主義の台頭など、グローバリズム、つまり純化に反発する動きが多く見られます。つまり、純化に反発し、多様性を求めようという動きが強くなっていると考えることができますね。

茸 多様性を大事にするということは、今ある文化を大事にしていくってことなんじゃ?そもそもグローバル化が進んでいるこのような状況で、新しい文化が生み出されるのは難しいと思うんですよ。過去の歴史を見ても、文化の融合というのはなかなか難しいものがあるし・・・。文化が異なるほど、互いに反発する傾向があるように思う。

 これに関しては、同意しますね。今ある文化の保持が多様性を維持していく一番の解決策でしょうね。ただ、1つ考えていかなければならない大きな問題がありますね。

 ほう、その問題とは?

 つまり、他の文化を認めるということは、現代であれば、たとえばイスラムにおける女性の人権が無視されている状況や残酷な拷問や刑罰なども文化として容認されるのかという問題です。文化といってしまえば、何でも認められるのか?ナチスも?自由を否定する自由を認めるのかという問でもあります。ちなみにドイツでは戦う民主主義といわれ、民主主義を否定する政党などは存在してはいけないことになっています。

茸 極論を言えば、文化同士の干渉なわけで、そのような干渉はやらないに越したことはないと思う。そこに「ポジティブな無関心」が必要なんじゃないかなと?自分の文化に悪い影響がないのであれば、干渉しないほうが望ましいと思う。まあ「ウチはウチ、ヨソはヨソ」ですね。

 議論が袋小路に入りそうですね。結局、「文化の普遍性」VS「文化の多様性」というのは、いつの時代も、その揺れ動きの中にあるのですね。そして、どちらにもメリットやデメリットがあります。結局、総花的な結論になってしまいますが、バランスを取る事が大事なのですよ。いわば「中庸」ですね。

 今は普遍化から多様化へと移りゆく段階にあるのですね。

 そして多様化が進んだところで、またこれではいけないということで普遍化が進められる。その繰り返しです。輪廻と申しましょうか、これに限らず、世の中の様々なものは「繰り返す」ことが多いです。現代の我々に必要なのは、この繰り返しに自覚的になることですね。そして、極論にならないよう、適度にバランスをとること。シーソーが、壊れないように

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 今は何でも極論にいってしまいますからね。すぐ白黒つけたがる。グレーゾーンというのもやっぱり必要じゃないかと。

介 もう少し「曖昧さ」に寛容になったほうが、我々も生きやすくなる部分もあるのではないですかね。

 「曖昧さ」は悪であるいうのが強いですからね。

 その点では、昔の人のほうが曖昧さに寛容だったともいえます。争いを避けるための知恵という点では、昔の人が優れている点もありますよ。現代人の我々が、歴史から学ぶべきことは多いですね。ただの知識だけではなく、物事への向き合い方というか

 資本主義の生み出した競争社会が、「勝ち組」や「負け組」を生み出し、曖昧さへの不寛容さを生み出したともいえる。確かに歴史の授業では事実の部分が多く、当時の人々の心の動きであるとか、そこに踏み込むことは少ない。歴史学というのは、過去から事例を学び、未来を推測することができる学問だと思う。そういう意味では、歴史学というのは非常にサイエンス的だ!!

 E・H・カーという歴史学者が、その著書の中で、「歴史とは過去との対話である」と言っています。

 温故知新、ですか。

 我々も歴史を学び、未来を作り、そして、また我々も歴史を残すのです。次の未来のために。歴史を作っていくのは、そう…

ディスプレイの前の君たちだ!

 うまくまとめましたね。

 これで終わります。皆さん、歴史を学びましょう~。

 では、またの対談をお楽しみに~。

歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)

 

 

組織の維持には敢えて働けない者がいることが大事!!「働かないアリに意義がある」

働かないアリに意義がある (中経の文庫)

何故生き物たちは群れるのか?生き物たちが作り上げる社会とは何ぞや?

会社の一員として、社会の一員として、組織の中で働くというのは辛いものだ。

「働かざる者食うべからず」の諺しかり、社会はキビキビ働くことを求めてくる。

特定の人間への仕事の集中、長時間労働の常態化、そして相次ぐ過労死問題。こうした問題は人間だけなのか?

 自然界に目を向けると我々人間と同じくらいキビキビと労働に勤しんでいるやつらがいる。そう、アリやハチなどの社会性昆虫だ。

 アリやハチなどのコロニーという社会を作る生物(真社会性生物)はコロニーの主たる女王と王、そしてコロニー運営を実行するワーカー(働きアリや兵隊アリなど)により構成される。女王のために働きアリたちが奴隷のように働かされているイメージがあるが、実際はそうではないようだ。

 人間社会と違い、アリ社会には上司がいない。つまり、上意下達の命令系統もない。では、一体どうやって働きアリたちは労働の判断をしているのか?ざっくりいうと、個体間における仕事に対する感受性、すなわち、反応閾値に差がある。些細な仕事にでもキビキビ働くアリもいれば、切羽詰まった状況にならないと働けないアリもいるというのだ。驚くべきことに、働かない働きアリはおらず、働きたくとも働けぬ働きアリがいるという事実である。

 一見、クローンのようにしか見えない働きアリだが、仕事に対する感受性が鋭いか鈍いかという違いが各働きアリによって設定されている。これにより、コロニー全体での仕事に量対し必要な労働力が動員されるという非常にフレキシブルかつ効率的な労働システムが成り立っているのである。

 ここで、重要なのは反応閾値が高い働きアリ(仕事に対する感受性が鈍い)はサボっているのではなく、反応閾値が低い働きアリ(仕事に関する感受性が鋭い)がさっさと目の前の仕事をこなしてしまうため、前者の働きアリは働きたくとも働けないのだ。しかし、コロニーの仕事量が増え反応閾値が低い働きアリたちで処理できなくなってきたときが、反応閾値の高い働きアリの出番なのである、この際、それまで業務を行なっていた働きアリの一部と交代する。つまり、コロニー全体を存続させるため、常に過不足なく労働力を保つシステムなのだ。働きアリの反応閾値に差があることで、仕事量に応じた働きアリが労働に従事するため、全ての働きアリが動員されずに済む。ここが重要だ。働きたくとも働けぬ働きアリがいることで、余剰労働力が生まれ、労働に疲弊した働きアリと交代できる、そう、過労死しないのだ。

 ほんと生物ってうまくできている、無駄がない。

 本書はアリの社会についての内容であるが、ヒトの作る社会も基本的には同じなのではなかろうか?最近はやたらと“多様性社会の推進”や“企業内のダイバーシティ化”などと声高に騒がれているが、むしろ、合理化、効率化を推し進めている人間社会よりアリ社会の方がよっぽど合理的かつ効率的であるようにすら思える。

 仕事をサボれとは言わないけど、組織内での仕事量の分配は一律化せず、常に余剰労働力がストックされた状態にあることがベストではないか?仕事なんてものは定常化したものでなく、突然のトラブルなどで一気に仕事量が増加するものだ。社員の個性も大事だけども、仕事量の多様化も必要なのではないか?

ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪 (文春新書)

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