哲学を学ぶには『Century books―人と思想』シリーズがおすすめ!
教員になってから、倫理という科目を教えなければならなくなった。
専門的には、本当は世界史を教えたかったのだが、人が足りないというからしょうがない。社会科という教科は、結局オールマイティーにできなければならないのだ。
(今や地理・世界史・日本史・政治経済と何でもやらされている便利屋さんである)
倫理というのは、簡単に行ってしまえば哲学の歴史を学ぶ科目だ。
学生時代は全く縁がなかった科目で、勉強したこともなかったから一から勉強しなければならず、非常に大変であった。教える内容は、指導書・参考書の類を見ればわかるのだが、結局それでは教科書をなぞるだけで、面白くない。
「10教えるために100を知り、100を教えず10を教える」ことが授業の鉄則だと自分は思っている。
ゆえに、どのように周辺知識を深めていくか。
「これでわかる」系のダイジェスト本みたいなものも読んだ(これに関しては、また別の機会に紹介したい)。
それだけではやっぱり足りない。
そこで、発見したのが今回紹介する清水書院から出ている「Centurybooks人と思想」シリーズだ。
これは、著名な哲学者を人物ごとに焦点に当てて編集されている。
その人物にまつわる有名なエピソードがいろいろとまとめてあって非常に使い勝手が良い。
思想内容も、その道の専門家によって簡潔にわかりやすくまとめてある。
ほとんどハズレがないのが素晴らしい。
そんなに分厚くなくてサッと読めるのも良い。
あえて難点を上げるとすれば、本の規格が新書とも文庫とも言えない微妙なサイズ感で、ブックカバーとかが合わないぐらいだ。
ダイジェスト本みたいのを読んで、興味を持った哲学者が出てきたら、このシリーズから選んで読んでみると良いだろう。
ちなみに今回例として取り上げた『キルケゴール』だが、僕の好きな哲学者の一人だ。
実存主義の先駆者と言われるが、僕に言わせれば彼は「哲学界の絶望先生」だ。
基本的に豆腐メンタルで、とにかくいつも絶望してるし、あとロリ◯ンという救いようのない性癖の持ち主である。
そんな彼のエピソードが「真面目」に語られているのが、本書の面白いところだ。
生徒に言っていることだが、哲学者だって我々と同じいろんなことに悩み苦しむ人間なのだ。
ただの偉人の話と考えるんじゃなく、等身大の同じ人間として捉えることが大事だ。
まるで自分の「友達」のように、その哲学者のことが語れれば最高だ。
「あいつっってこんなところがあるんだぜ!」みたいに。
哲学者を知って、哲学者と「友達」になろう!
ちょっとめんどくさい奴らだけど、哲学者たちも君たちのことを待っていますよ?
茸氏、御朱印帳を持って、神社を巡る。
読者諸賢、ごきげんよう。
寺社仏閣巡りはいい。
寺社仏閣巡りをするために旅行をすると言っても過言ではない。
仏像を巡る旅も良いのだが語ると長くなるので、今回は神社についてである。
色鮮やかな社殿、長くその地に鎮座し古の歴史を感じさせる社殿を見て、鳥居と鎮守の森により外界と隔絶された聖域を感じさせる雰囲気を感じるのが良いのである。
○
社会人になってからというもの、いくつかの神社を巡った。
2年前に明治神宮で御朱印帳を買ってから一層神社巡りが楽しくなった。
御朱印帳が埋まって行くにつれ神々の力を分けてもらっているような気さえしするのである。
ようやく御朱印帳の半分が埋まった程度ではあるが。
RPGゲームで伝説の武具やアイテムを集めて行くような感覚に近いとも言える。
○
主な神社といえば、明治神宮、伊勢神宮、熱田神宮、諏訪大社、上・下賀茂神社、塩釜神社などである。
本当に神社全体、つまりは御神体たる山や森にあたかもそこに神々がおわしますような雰囲気を感じるのである。
現代人たる私ですらそこに神の息吹を感じるのであるから、古代の人々はそこを聖域として神を祀り神社としたのもよくわかる。
存在を固定化された神ではなく、その場所・空気というか雰囲気全体に神がいる、神の中に自分がいるという感覚だ。
古代の人々は自然=神と感じていたのであろうと現代人たる私は思いを馳せるのである。
↑諏訪大社 上社前宮:社殿からの後光に神々しさを感じた茸氏。
○
ところで、私の地元は広島県の瀬戸内海に面した街である。
そのため、厳島神社のある宮島へ出かけることはそんなに珍しいことではない。
ちょっとふらっと行ってくるというような感覚である。
地元の幼稚園~高校生の遠足の定番コースであるのだ。
なので、帰省した際にはよく厳島神社へ参拝に行くのである。
世界に類のない水上社殿はいつ見ても美しく、海面の大鳥居も干潮時と満潮時では違った美しさがる。
↑厳島神社大鳥居:社殿より撮影。向こうに見えるのは本州。夕暮れ時の満ち潮。
建立した平清盛公にはただただ感謝するばかりである。
参拝の後は、社殿後ろにある仏閣群へと足を運ぶ。
そこままるで、京都の箱庭のようである。
五重塔やお寺が密集している様はまるで京都のようである。
厳島神社の上にある五重塔を神社から見ると、社殿と五重塔がフレームに収まる絶景である。
○
さて、今年はどこのお社に参ろうか?
出雲大社、京都伏見稲荷、鹿島神宮、春日大社のいずれかには参ってみたいものだ。
神社巡りの際には、その神社の由緒を知ってから参拝すると色々なことがわかって面白い。
なぜその神様が祀られるに至ったのか?社殿の造りや配置などマニアックなネタは尽きない。
そのあたりの歴史的な事柄については介氏の方が詳しいので、彼に譲る。
理想と現実に挟まれて圧死する教員『反省させると犯罪者になります』
今回は、教員らしく教育関係の本を取りあげたい。
本書は、タイトルがとてもセンセーショナルで何かと話題になった本であるが、伝えたいことは簡潔明瞭であり、以下のよう要約できると思う。
反省文を書かせたりして反省を促すような生徒指導は、形だけの反省しかもたらさず、意味がない。むしろ非行がエスカレートしてしまう。ゆえに、なぜ自分がそのような行動をしてしまったのかをじっくり考えさせる事が必要である。
このことを、刑務所で受刑者の更生支援に携わっている筆者が、多くの具体例をとりあげながら立証している。
とても納得できる内容で、実際自分も生徒指導をしている中で感じていた問題点を解決できるかもしれない画期的なメソッドであると感じた。
しかし、同時に、実際このやり方を教育の現場で完全に取り入れていくのは難しいとも感じた。
それは、結局、教員は生徒指導をしたという証拠として「反省」を求められているからだ。被害を受けた生徒、そしてその保護者、校長・教頭などの管理職に対して、教員は生徒指導の報告しなければならず、「反省をしているという事実」を提示しなければ納得してもらえないのだ(一番わかりやすい物的証拠となるのが、本書で叩かれている反省文だ)
本書によれば、生徒指導は長い目で生徒本人に自分を考えさせることが大事なのだという。私もそれがいちばん必要だと思う。しかし、教員は、あまりにも膨大な仕事を抱え、生徒指導も「さっさと片付けてしまいたい、めんどくさい仕事」になってしまっている。だから、説教部屋に2,3日に閉じ込めて反省文書かせておしまい!みたいな型通りなものなってしまうのです。みんなが納得できる「これにて一件落着!」のやり方なのです。
でも、本書を読めば、これが生徒を不幸にしてしまうやり方なことがわかるし、とても胸が痛みます。自分もできるだけ指導をする時に取り入れていきたいと思います。
でも、自分だけやっても意味がないです。生徒の話を聞いてあげたいし理解してあげたいけれど、それでは「甘い!」「だから生徒になめられるんだ!」とか怖い先生に言われてしまうし。結局、怒鳴り散らして生徒を恐怖で萎縮させて従わせることが良しとされる世界で、そういう人が幅を利かすところなのです。
踊る大捜査線の和久さんが「正しいことをしたかったら偉くなれ」と言っていたけれど、まさにそのとおりなんだと思います。
でも、偉くなるためには、「甘い」と言われているようではダメですし、そこら辺の矛盾で最近は悩むことが多いです。
和久さん、僕は、どうすればいいんですかね?
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先輩と黒髪の乙女の奇妙な恋ー「夜は短し歩けよ乙女」ー
読者諸賢、ごきげんよう。
今春、森見登美彦氏の名作「夜は短し歩けよ乙女」が映画化されるとのこと。
勿論、私は映画を観に行くつもりである。
その時、横に黒髪の乙女が居れば完璧なのだが、世の中は厳しい。
○
良い機会なので今一度、「夜は短し歩けよ乙女」を読み直してみた。
10年ぶりだ。
大学院を卒業した今現在、このくされ大学生たる「先輩」が立ち回る小説を読むのは、大学生になりたてほやほやの頃に読んだのとはまた違った趣があった。
アニメ版「四畳半神話大系」を観ていたため、以前より話のイメージをしやすかったというのが大きいのかもしれない。
樋口師匠、羽貫さんら「四畳半神話大系」に登場する人物も数人いるため、私の脳内で生き生きとキャラクターが動くのである。
「四畳半神話大系」がアニメ化されたのも最早7年前。
時が経つのは早いものである。
○
10年ぶりに読み返しても変わらぬのはやはり森見節とでもいうべき独特の文章である。
ひねくれた主人公のモノローグを硬派な文体にのせ、その語り口はどこまでも知的であり読み心地が良い。
登場人物たちもどこまでも阿呆であるが、教養に裏打ちされた阿呆であり、決して馬鹿ではないところが、作者のキャラクター造形の巧いところなのであろう。
○
そんな森見節の作品に多感な大学1回生が食いつかぬはずはなく、私は見事に森見作品の餌食となったのである。簡潔にいうと、どハマりした。
そういえば、私がこの小説を読んだのはもはや10年前、ちょうど大学生になりたての頃であった。
当時の私は、大学生になればめくるめく薔薇色のキャンパスライフが私を待っていると思っていた救いようなない阿呆であった。
作中の「先輩」が着々と遂行していく【ナカメ作戦】に私は既視感を覚えずにはいられなかった。
【ナカメ作戦】
それは、なるべく彼女の目にとまる作戦を略したものである。
一見すると阿呆ここに極まれりといった作戦だが、心当たりのある男子諸君らもいるであろう。
私もその阿呆の一人である。男子高校生とでもあれば、意中の女子がいてもおかしくないだろう。
いや、むしろそれが健全たる高校生というものではないか。
そして、少しでも彼女とお近づきにならんと、あの手この手の策を弄しては無残にも散っていくのが大半の男子高校生の姿であろう。当の私もそちら側であったことは認めざるを得ない。
意中の彼女に会うべく【ナカメ作戦】に類似した作戦を行っていた時期が私にもあった。
唾棄すべきは、薔薇色のスクールライフの好機は目の前にぶら下がっていたのかもしれなかったにもかかわらず、ただひたすら彼女の外堀を埋めることに邁進し、本丸へ攻め込むことを恐れたことだ。
成就しなかった恋ほど、書きたくないものはない。
○
登美彦氏の小説には、鴨川デルタ、下鴨神社、京都大学、大文字山、水路閣、琵琶湖疏水、四条大橋、木屋町、先斗町などなど多くの洛中の場所が出てくる。細かく描写された風景は読み進めていくうち、実際に洛中を彼らのように闊歩したくなる気を起こさせる。
つい先日、「森見登美彦の京都ぐるぐる案内」なる本を買った。
森見作品に登場する様々なロケーションがスナップ写真と小説の一場面がセットで載っており、知的な京都ぐるぐる巡りができる仕様となっている。
所謂、聖地巡礼ガイドブックのようなものだ。
京都へ出かけての寺社仏閣巡りも良いものだが、文学作品の聖地巡礼というのもやってみたいものだ。
今年の5月の大型連休には上洛し、寺社仏閣&森見作品舞台地巡りをやろう。
冬はやっぱり鍋。
こんばんは。茸です。
2月になりました。
明後日は立春・節分、暦の上では春へ移り変わる時季だそうです。
このところ、関東の方は暖かい日がぼちぼちあるようですが、東北はやっぱり寒い。会社から帰ってくるだけで、カラダが冷えきってしまう。
やはり、そんな寒い時季は温かい鍋‼︎
そして、今日の夕飯は鴨鍋です。
↓画像は鴨鍋(鴨肉投入前)の様子
どうも鴨鍋というのがあまりメジャーでないようで、学生時代に友人に「鴨鍋でもしないか?」と誘っても食べたことない人がほとんどでした。
あれほど美味い鍋を知らぬとはなんと勿体ないことか⁉︎と思ったものですが、鍋物という料理は各家庭ごとに独自の文化であるし、まぁ仕方ないことかなと。
で、我が家の鍋はというと基本的に野菜たっぷり鍋です。
大根、人参、長ネギ、白菜、水菜、茸、豆腐などが基本具材で、鶏肉、豚肉、魚が日によって変わります。
まさに食物繊維大量摂取系鍋なのです。
大量の食物繊維とタンパク質、程よい炭水化物のバランスの取れた栄養配分‼︎いやぁ、健康的‼︎
鍋料理は基本的には具材を切って鍋に放り込んで煮込むだけですから、作るのが楽なんですよね。
鶏肉や鴨肉の場合は割り下、白だしで味付け。鶏肉からの脂がいい味を出し、鴨肉は特に甘みとコクが強いので、このダシで雑炊にするとこらがまた絶品なのですよ。読者諸賢には、是非とも食して頂きたいものです。
豚肉や魚の場合はポン酢であっさりといただくのが、我が家の文化です。
しばらくは寒い日は続くようですので、まだまだ鍋のシーズンを満喫できそうです。
今日の鴨鍋レシピ
(1人分)
具材
・大根 1/3本
・人参 1/2本
・ごぼう 1/2本
・白菜 1/4玉
・水菜 3束
・舞茸 1/2袋
・えのき 1/2袋
・豆腐 半丁
・鴨肉 100g
ダシ
・昆布
・割り下
シメ
・うどん 1玉