「意識」の生物学的意義は、神経細胞の維持であるー『唯脳論』ー
意識とはなんなのでしょう?
私を私たらしめている脳の働きを意識とでも言えば良いのでしょうか?
つい最近までニーア・オートマタをプレイしていまして、ゲーム内に出てくるアンドロイドや機械生命体たちが「心」について色々葛藤するんです。
鉄腕アトムから続く人工知能に人間の「心」は生まれるのか?というテーマが見えまして、久しぶりに「唯脳論」を読み返しました。
今回は養老孟司著「唯脳論」をベースに茸氏なりの思うところを綴って見ようと思います。
この「唯脳論」、出版されたのはずいぶんと前になりますが、攻殻機動隊、エヴァ、AI、サイバーパンクものやSFものが好きな人は、色々と考えながら読めて面白いと思いますよ。
まず、脳とは物質的実体のある物体であり、その脳の機能、すなわち、脳活動の現象が意識=心であるということです。
なので、心は何処に在るか?なんて問いは禅問答みたいなもので、脳の局地的な一部にどんと鎮座しているようなものではなく、脳そのものの機能が顕現しているだけなので、強いていうなら脳にあるとしか言えません。
脳という物質的構造体からいかにして意識が生まれてくるのか?
不思議ですよねー
以下、本書で印象に残っている部分の抜粋です。
ー脳は複雑怪奇な構造をしているが、個々の神経細胞の機能からすれば、複雑ではないことである。神経細胞が連絡しあい、興奮するか、抑制される。それだけである。それでどうして、記憶や、心理や、計算や夢が生じるのか。複雑怪奇なのはそこである。ー
ーそこでどうしても考えたくなるのが、「意識」の存在でる。神経細胞が脳の中でできるだけお互いどうしつながり合うことによって、お互いに「抹消」あるいは「支配域」を増やす。それによって、お互いを維持する。それを機能的に言うなら、互いに入力を与え合う。それによってお互いの入力を増やす。ー
ー脳内の神経細胞が増加し、外部からの入力、あるいは直接の出力の「量」だけに依存するのではなく、脳の自前の、あるいは自慰的な活動に、神経細胞の維持が依存するようになった時、意識が発生したと考えてはいけないであろうか。ー
・脳が世界を創る
この宇宙のあらゆるものは観測者により観測されることによって初めて存在を認識され実体が確定する。
遠い恒星も、宇宙を構成する素粒子も観測されて初めて存在が確認されます。私たち個人という存在においても他人(観測者)により観測(認知)されることで個人の存在が確定します。
つまり、観測されないものは存在しないということです。
ここで言う観測者とはすなわち脳です。
つまりは、脳が脳を取り巻くこの世界(外界)を観測することで、私たちの現実世界が構築されていくのです。
現実世界は私たち自身の脳によって創られると言っても過言ではないのです。
・脳が知らない=存在しない
例えば、背中が痒い。そう感じているのは背中ではなく、脳です。
背中に配備した末梢神経から痒みの信号が脳に届き、背中の感覚担当の神経細胞群が「痒い」と知覚することで「背中が痒い」と感じるわけです。
いくら背中から痒みの信号が来ても脳がそう知覚しなければ、痒みなど存在しないことになります。
・茸氏なりの意識発生についての解釈
①これまでの脳は、身体中の感覚入力を集取し、適切な行動を出力するオートマタ(自動機械)であった。
この時の脳が知っているのは、外界の現実と自身の身体の状態。
脳は外界のことは知っているが、脳自身のことは知らない。
意識というものはなく、本能に従って行動する状態。
②人類の進化の過程で、大脳皮質の神経細胞がお互いに繋がり合(情報処理の効率化、神経細胞の維持など)った結果、脳内の状態を知るようになり、意識なるものの発生した。
比喩的な表現ですが、まるで鏡に映った自分を見て自分がわかるように、脳は脳自身を知ることになった。
巨大化した脳の神経細胞を維持するシステムが「意識」。
で、養老先生はこのように言っております。
「意識」の生物学的意義は、神経細胞の維持である。
脳はその維持機能を「意識」と称して意識しているだけのことである。
「意識」についてあれこれ考えているのも、私の脳であり、脳は脳のことを知ろうとして躍起になりわけがわからなくなっている。
滑稽ですよね。