知の望遠鏡

文系教師と理系研究員の本の紹介を中心としたブログです。

脳が創る感覚、そこに実体は在るか?ー『触れることの科学 なぜ感じるのか どう感じるのか』ー

触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか

 

 

茸氏、このところ小説書評が続いておりましたので、今回は理系本です。

 

 

感覚というものは人それぞれに異なるもの。

 

「私の視ている赤とんぼとあなたが視ている赤とんぼは、果たして同じ『赤とんぼ』なのか?」

 

否。

 

私が視ている「赤」を他人は「橙」と視るかもしれないし、逆もまた然りです。

 

これは視覚についての例ですが、嗅覚、味覚、聴覚、触覚についても同じです。

 

人によって感じ方(反応域)と感度が異なります。

 

このような知覚や認識というのは主観的な概念感覚でありますので、他人が客観的に評価することは非常に困難を極めます。

 

視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚。

 

今回はこの五感の中でもとりわけややこしい「触覚」についての内容になります。

 

触覚:熱い、冷たい、圧力、痛み、快感、痒みなど

 

各感覚についてはそれぞれの専用神経が用意されておりまして、種類は違っていても、やっていることは同じです。

 

各神経が受容した様々な外界情報を、脳の共通情報処理言語すなわち電気信号(活動電位)に変換し、脳へと送ります。

 

ただし、各受容器から情報が送られてくるだけでは、外界は知覚されず、受容器から送られてくる情報を脳が複合的かつ高次的な処理を施してはじめて感覚という認識が生まれるのです。

 

 

外界がどんな状態なのか?つまりは、環境情報を感知するのが、視覚、聴覚、嗅覚、味覚であるとするなら、自分がどのような状態にあるのか?を感知するのが触覚です。

 

一般的に、触覚というとまず思いつくのは、痛み、熱、圧力、痒み、質感などといった日常的に感じる感覚だと思います。

 

痛み、熱、圧力、質感、快感の受容に関してはそれぞれに対応した専用の神経細胞が割りてられ、皮膚の下に埋め込まれておりして、人によってこれらの神経終末(感覚センサー部分)の密度や発火頻度(感覚のボリューム)が違うため、感じ方が異なってきます。

 

面白いことに、触覚について痛み・圧力・温度・快感の感覚にはそれぞれ対応する専用のセンサーと神経繊維が配備されいることが判っているのですが、どうも痒みの感覚だけはよく判っていないようです。

 

「痒み神経からの入力で痒みを感じる」みたいな単純経路ではなさそうなのです。

 

どうも痒み受容体(センサー)も1つではなく、複数種類あるようで、おまけに痒み情報を処理する脳内ネットワークも複雑だと見られています。

 

この煩わしい感覚の究明は「痒いところには手が届かない」状態であるようですが、早く究明してほしいものです。

 

そして、脳に送られた触覚情報はまず視床でざっくり下処理された後、大脳皮質の情報元に対応する部分(感覚野)に送られて処理されて触覚として知覚されます。

rehatora.net

 

筆者はとりわけ快感、愛撫感覚やオーガズムに関して多くのページを割いて科学的に解説しておりまして、まぁ、あまり生物学の教科書には載らない内容でしたのでなかなかに興味深いものでした。

 

 

この他にも、無意識下の触覚があり、実はこの無意識下の感覚が自己の確立に重要な働きをしております。

 

極端なことを申しますと、脳の仕事というのは、意識を作り出すことではありません。

 

感覚神経から入力される様々な外界情報を迅速かつ適正に処理し、筋肉(運動器官)に指令を出力し、反応行動を起こすことです。

 

神経系のメイン機能はこれでありまして、進化に伴う脳の複雑化と巨大化の結果、意識という複雑な情報処理の産物が生まれたのでしょう、オマケみたいなものです。

 

膨大な数の神経細胞が繋がった巨大な神経ネットワークの活動そのものが意識を生み出すのなら、現代のインターネット上にも意識のようなものが生じても可笑しくはないのかもしれませんね。

 

そういえば、『攻殻機動隊』にそんな感じの話があったと思います。

 

 

すみません、少々脱線しました。

 

無意識下の感覚が何故重要かと言いますと、末端からのフィードバックがなければ脳は「自分のカラダ」を認識できないからです。

 

脳が運動器官に指令を出力した後、筋肉が緊張しているのかor弛緩しているのか?皮膚は引き延ばされたりor圧力がかかったりしているのか?などの運動器官や体表感覚のフィードバックがないと、出力した指令が適切であったのかがわかりません。

 

常に身体位置のフィードバックがあるため、私たちは歩いたり、コップを持ったり思うままにカラダを動かすことができます。

 

結局は、脳が「触覚」として認知しない限り「触覚」という感覚は無いのも同じということです。

 

脳で感覚が生ずるということは、実際に感覚神経からの入力が無くても、脳が勝手に「感覚がある」と認識すれば当人にとってはそれが現実となります。

 

幻視、幻聴、幻肢痛などは脳のそうした勘違いが原因と言われています。

 

視・聴・味・嗅覚によって脳内に再構築された世界(外界)と、その中に触覚(身体位置)により輪郭のはっきりした個体を認識する神経ネットワークが自意識なのではないだろうか?

 

本書を読みながら私はそんなことを考えておりました。