理想と現実に挟まれて圧死する教員『反省させると犯罪者になります』
今回は、教員らしく教育関係の本を取りあげたい。
本書は、タイトルがとてもセンセーショナルで何かと話題になった本であるが、伝えたいことは簡潔明瞭であり、以下のよう要約できると思う。
反省文を書かせたりして反省を促すような生徒指導は、形だけの反省しかもたらさず、意味がない。むしろ非行がエスカレートしてしまう。ゆえに、なぜ自分がそのような行動をしてしまったのかをじっくり考えさせる事が必要である。
このことを、刑務所で受刑者の更生支援に携わっている筆者が、多くの具体例をとりあげながら立証している。
とても納得できる内容で、実際自分も生徒指導をしている中で感じていた問題点を解決できるかもしれない画期的なメソッドであると感じた。
しかし、同時に、実際このやり方を教育の現場で完全に取り入れていくのは難しいとも感じた。
それは、結局、教員は生徒指導をしたという証拠として「反省」を求められているからだ。被害を受けた生徒、そしてその保護者、校長・教頭などの管理職に対して、教員は生徒指導の報告しなければならず、「反省をしているという事実」を提示しなければ納得してもらえないのだ(一番わかりやすい物的証拠となるのが、本書で叩かれている反省文だ)
本書によれば、生徒指導は長い目で生徒本人に自分を考えさせることが大事なのだという。私もそれがいちばん必要だと思う。しかし、教員は、あまりにも膨大な仕事を抱え、生徒指導も「さっさと片付けてしまいたい、めんどくさい仕事」になってしまっている。だから、説教部屋に2,3日に閉じ込めて反省文書かせておしまい!みたいな型通りなものなってしまうのです。みんなが納得できる「これにて一件落着!」のやり方なのです。
でも、本書を読めば、これが生徒を不幸にしてしまうやり方なことがわかるし、とても胸が痛みます。自分もできるだけ指導をする時に取り入れていきたいと思います。
でも、自分だけやっても意味がないです。生徒の話を聞いてあげたいし理解してあげたいけれど、それでは「甘い!」「だから生徒になめられるんだ!」とか怖い先生に言われてしまうし。結局、怒鳴り散らして生徒を恐怖で萎縮させて従わせることが良しとされる世界で、そういう人が幅を利かすところなのです。
踊る大捜査線の和久さんが「正しいことをしたかったら偉くなれ」と言っていたけれど、まさにそのとおりなんだと思います。
でも、偉くなるためには、「甘い」と言われているようではダメですし、そこら辺の矛盾で最近は悩むことが多いです。
和久さん、僕は、どうすればいいんですかね?
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先輩と黒髪の乙女の奇妙な恋ー「夜は短し歩けよ乙女」ー
読者諸賢、ごきげんよう。
今春、森見登美彦氏の名作「夜は短し歩けよ乙女」が映画化されるとのこと。
勿論、私は映画を観に行くつもりである。
その時、横に黒髪の乙女が居れば完璧なのだが、世の中は厳しい。
○
良い機会なので今一度、「夜は短し歩けよ乙女」を読み直してみた。
10年ぶりだ。
大学院を卒業した今現在、このくされ大学生たる「先輩」が立ち回る小説を読むのは、大学生になりたてほやほやの頃に読んだのとはまた違った趣があった。
アニメ版「四畳半神話大系」を観ていたため、以前より話のイメージをしやすかったというのが大きいのかもしれない。
樋口師匠、羽貫さんら「四畳半神話大系」に登場する人物も数人いるため、私の脳内で生き生きとキャラクターが動くのである。
「四畳半神話大系」がアニメ化されたのも最早7年前。
時が経つのは早いものである。
○
10年ぶりに読み返しても変わらぬのはやはり森見節とでもいうべき独特の文章である。
ひねくれた主人公のモノローグを硬派な文体にのせ、その語り口はどこまでも知的であり読み心地が良い。
登場人物たちもどこまでも阿呆であるが、教養に裏打ちされた阿呆であり、決して馬鹿ではないところが、作者のキャラクター造形の巧いところなのであろう。
○
そんな森見節の作品に多感な大学1回生が食いつかぬはずはなく、私は見事に森見作品の餌食となったのである。簡潔にいうと、どハマりした。
そういえば、私がこの小説を読んだのはもはや10年前、ちょうど大学生になりたての頃であった。
当時の私は、大学生になればめくるめく薔薇色のキャンパスライフが私を待っていると思っていた救いようなない阿呆であった。
作中の「先輩」が着々と遂行していく【ナカメ作戦】に私は既視感を覚えずにはいられなかった。
【ナカメ作戦】
それは、なるべく彼女の目にとまる作戦を略したものである。
一見すると阿呆ここに極まれりといった作戦だが、心当たりのある男子諸君らもいるであろう。
私もその阿呆の一人である。男子高校生とでもあれば、意中の女子がいてもおかしくないだろう。
いや、むしろそれが健全たる高校生というものではないか。
そして、少しでも彼女とお近づきにならんと、あの手この手の策を弄しては無残にも散っていくのが大半の男子高校生の姿であろう。当の私もそちら側であったことは認めざるを得ない。
意中の彼女に会うべく【ナカメ作戦】に類似した作戦を行っていた時期が私にもあった。
唾棄すべきは、薔薇色のスクールライフの好機は目の前にぶら下がっていたのかもしれなかったにもかかわらず、ただひたすら彼女の外堀を埋めることに邁進し、本丸へ攻め込むことを恐れたことだ。
成就しなかった恋ほど、書きたくないものはない。
○
登美彦氏の小説には、鴨川デルタ、下鴨神社、京都大学、大文字山、水路閣、琵琶湖疏水、四条大橋、木屋町、先斗町などなど多くの洛中の場所が出てくる。細かく描写された風景は読み進めていくうち、実際に洛中を彼らのように闊歩したくなる気を起こさせる。
つい先日、「森見登美彦の京都ぐるぐる案内」なる本を買った。
森見作品に登場する様々なロケーションがスナップ写真と小説の一場面がセットで載っており、知的な京都ぐるぐる巡りができる仕様となっている。
所謂、聖地巡礼ガイドブックのようなものだ。
京都へ出かけての寺社仏閣巡りも良いものだが、文学作品の聖地巡礼というのもやってみたいものだ。
今年の5月の大型連休には上洛し、寺社仏閣&森見作品舞台地巡りをやろう。
冬はやっぱり鍋。
こんばんは。茸です。
2月になりました。
明後日は立春・節分、暦の上では春へ移り変わる時季だそうです。
このところ、関東の方は暖かい日がぼちぼちあるようですが、東北はやっぱり寒い。会社から帰ってくるだけで、カラダが冷えきってしまう。
やはり、そんな寒い時季は温かい鍋‼︎
そして、今日の夕飯は鴨鍋です。
↓画像は鴨鍋(鴨肉投入前)の様子
どうも鴨鍋というのがあまりメジャーでないようで、学生時代に友人に「鴨鍋でもしないか?」と誘っても食べたことない人がほとんどでした。
あれほど美味い鍋を知らぬとはなんと勿体ないことか⁉︎と思ったものですが、鍋物という料理は各家庭ごとに独自の文化であるし、まぁ仕方ないことかなと。
で、我が家の鍋はというと基本的に野菜たっぷり鍋です。
大根、人参、長ネギ、白菜、水菜、茸、豆腐などが基本具材で、鶏肉、豚肉、魚が日によって変わります。
まさに食物繊維大量摂取系鍋なのです。
大量の食物繊維とタンパク質、程よい炭水化物のバランスの取れた栄養配分‼︎いやぁ、健康的‼︎
鍋料理は基本的には具材を切って鍋に放り込んで煮込むだけですから、作るのが楽なんですよね。
鶏肉や鴨肉の場合は割り下、白だしで味付け。鶏肉からの脂がいい味を出し、鴨肉は特に甘みとコクが強いので、このダシで雑炊にするとこらがまた絶品なのですよ。読者諸賢には、是非とも食して頂きたいものです。
豚肉や魚の場合はポン酢であっさりといただくのが、我が家の文化です。
しばらくは寒い日は続くようですので、まだまだ鍋のシーズンを満喫できそうです。
今日の鴨鍋レシピ
(1人分)
具材
・大根 1/3本
・人参 1/2本
・ごぼう 1/2本
・白菜 1/4玉
・水菜 3束
・舞茸 1/2袋
・えのき 1/2袋
・豆腐 半丁
・鴨肉 100g
ダシ
・昆布
・割り下
シメ
・うどん 1玉
本を断捨離して、本棚を最高のときめきインテリアに。
こんにちは、介です。
僕は、見かけは柔道選手みたいですが意外に乙女な所があって、結構、整理整頓とか好きなんです(でも掃除は苦手で、あまり好きじゃない)。
最近、話題になっていた『人生がときめく片づけの魔法』を読んで、影響を受けまくりまして、いろいろと部屋のお片付けをはじめたわけです。
で、その中で、一番の難敵が本だったわけですね。大学時代からの本を全部持ってきてかつ、読みもしない本を「これは授業のネタに使えるかもしれぬ」を買ってしまい、本棚には収まりきれず、押し入れの中まで侵食してきたわけです。
そこで、まず家中の本を一箇所に集めて、一つひとつ「自分がその本にときめくかどうか」をチェックしていきました。その結果、ダンボールが5箱ぐらいになり、ブックオフに出張買取してもらったわけです。
というわけで、今日はスッキリした僕の本棚を皆さんにお見せしようと思います。
続きを読む書店探訪、『書縁』を訪ねて。
私(茸)は書店に行くのが好きだ。
街に出かけた際に少しの時間があればフラッと書店へと赴く。
特に買いたい本があるわけでもなく、ただ本を探しに行くのである。
街にある大型書店がいい。
書店に入るとすぐ新冊の紙の匂い、インクの匂いとでもいうべきかあの独特の香りが鼻をくすぐる。
書店の静粛な雰囲気の中、膨大な書籍の中から思わず読みたくなるような本を探すべく、ただアテもなく本棚の前を歩いて行くのだ。
書店の良いところは、思わぬところで良本に出会うことである。
お目当の本を探している途中でふと目に入った本に興味が湧くことは少なくない。むしろ、そんな時にこそ良本を発掘できる。
買う前に本を手に取り、パラパラと中身を少しばかり吟味してから買うことができるというシステムが何より良い。
書店には様々な書物の『縁』という糸がたなびいている。
「さぁ!私を読め‼︎」と言わんばかりの本が手ぐすね引いて待ち構えているところへ、えいやっと足を踏み入れるのだ。
どの『縁』を引き、良本と出会えるか、そうして引き当てた本が自分にとっての良本、強いては宝典ともいうべき書物になるか、そこに書店探訪の醍醐味があるのである。
もしかすると、書店には本との『縁』結びの神様がいるのではないかと思うことすらある。
昨今、街の書店が相次いで閉店に追い込まれているニュースを聞くにつけ悲しい限りだ。電子書籍やネット通販の代等により、書店は経営難に陥っているのだという。
確かに、電子書籍やネット通販は便利で即時的であるため、私もよく利用する。
しかし、電子書籍などはお目当の本を即時購入する際には便利だが、新しい本に出会う機会はかなり限定的なものだと私は思う。
「あなたへのおすすめ」や「この本を買った人は他にこんな本も買っています」のように、各個人に合わせて色々とリンクをつけてお節介をしてくれ、新しい本に出会う機会を広げてくれているように見える。
だが、これはあくまでも過去の購入履歴やパターンから計算された結果であり、ある意味で予定調和的、ネット書店側が用意したレールをただ辿っているように過ぎないのではないか?
結局は、自分の趣味嗜好パターンの範疇内で視野や知見を広げる機会が限定されてしまう気がするのだ。
書店でフラフラと物色中に、全く予期せぬ場所で予期せぬ本を見つけるような偶然的な出会いによって、自分の趣味思考の範疇外へ興味の幅を広げることができる絶好の機会ではないか。
そこで掴んだ『書縁』からまた別の『書縁』を手繰り寄せて行くことで、自分の世界は広げることおできる数少ない貴重な場所こそ、(アナログの)書店であるのだ。
勿論、ネット書店や従来の書店の両方ともメリットとデメリットはあり、上手く使い分けていけば良いのだけれども、いかに時代の流れとはいえ従来型の書店が淘汰されて行くのが寂しいのである。
ご近所に中型書店ができることを切望するこの頃である。